
宿んしはこげなおひとじゃなかったこてぇ
西郷さんの、3番目のおくさん、西郷糸子(さいごういとこ)さんが、上野の西郷さんの銅像完成除幕式で、最初に言った言葉です。
今回は西郷さんの顔は別人の顔っていう説が高いですよね??
鹿児島の人にとっては、鶴丸城跡地ちかくにある、軍服姿の西郷さんが印象にのこりますが。
一般的に有名な西郷さんは、やはり上野公園の西郷さんの銅像のイメージではないでしょうか?
そうです、ゆかた姿で、愛犬のツンをつれて歩いている姿のあの銅像です。
その上野公園の西郷さんの銅像が完成した時の話なんですが。
上野の西郷さんの銅像が完成して、除幕式に招待された、西郷さんの3番目のお嫁さんイトさんが、「宿んしは、こげなおひとではなかったこてぇ」(うちの主人はこんなおひとじゃなかったののに)といったとうことも、有名なはなしでして、この顔がちがう説の理由の一つとして、顔がちがう説を盛りたてています。
今回は、少し寄り道して、この言葉の本当の意味の真実にせまってみようと思います。
これは、西郷さんの子孫の方々の証言を聞いたことをもとに書いています。
これを読んでいるあなたは、少なからず歴史が好きで読んでくれていると思います。
「えっ?なんだ、ビジネスに関係ないじゃないか??」そう思われるあなたも、チョットした会話で、クライアントさんや仕事仲間のお酒の席などでいつかはなしのネタとして、使っていただくこともあるかもしれません。
そんなことで、この話しを進めていきたいと思います。

西郷さんは、西南戦争で命をたってから、西郷さんの死後9年近い間、明治政府にはむかった賊軍(ぞくぐん)のリーダーだったとしてのあつかいを、うけていました。
しかし、西郷さんの誠実な人がらをしる明治天皇は、西郷さんの生前の話などを説明して、明治政府に西郷さんの汚名をはやくとりやめ、名誉をとりもどして、賊軍としてのあつかいをとくようにと催促します。
そのかいあって、西郷さんは、死後12後1889年(明治22年)にそのあつかいをとくことが出来ました。
上野公園にある銅像は、そのあつかいがとけて、9年たった後。
西郷さんが死んで21年後の、1898年(明治10年)に除幕式がおこなわれました。
そうはいっても、政府の中には、こころよく西郷さんの事を思っていない勢力もまだまだのこっていました。
なので、この銅像の西郷さんの銅像には、軍服姿を反対することをとなえる人がいました。
そのため、上野の銅像は、 浴衣姿に身を包み、生前、何十匹も犬を飼っていた西郷さんの、よくかわいがっていた愛犬の中から、薩摩犬の「ツン」メス犬が選ばれました。
しかし、西郷さんの汚名がとかれた銅像の姿は、ゆかた姿でありまして、りっぱな軍服すがたをまとった西郷さんを希望する遺族の意とは反していました。
後に、西郷さんの妻糸子さんは、「多くの人間の前で、礼儀をわきまえず、普段着のままで人前にでるような人間ではなかった。」とせつめいしています。
西郷さんの本を読んでいると、礼儀ただしい人で、来客が突然あると、お客さんを少し待たせて、いちいち正装に着替えていたそうです。
その事から、西郷さんは浴衣姿で、町を闊歩する事はありえなかったように思えます。
なぜ、宿んしはこげなお人じゃなかったと言ったのか??似ていなかったのか??
結論から言うと、西郷さんの子孫のかたがたから伺った話ですが、あの銅像の顔立ちは、本当に似ていたそうなんです。
イトさんも、銅像の西郷さんの顔をみて、似ていると思ったそうです。
遺族も「本人そっくり」と認めるような容貌だったそうです。
じゃあ、なぜ、イトさん(西郷さんの奥さん)は、「主人はこんな人じゃなかった」と不満をもらしたのか??
ここが今回の一番ふれたいところなんです。
その理由は2つありました。
一つ目は、西郷家は、西南戦争にやぶれて、賊軍としての汚名をうけました。
今の言葉をかりれば、テロリストの一族という汚名です。
このテロリストの一族がいると、また反発する士族達が終結して、反乱をおこす可能性があると考えた明治政府は、この西郷一族を、関西、関東と、家族兄弟をバラバラにさせました。
そのため、イトサンは鹿児島から遠く離れた土地へと移され、家族バラバラの生活をおくらされ、政府にたいして反感をもっていました。
あなたならどうですか?
だんなを奪われ、子供や兄弟達と別れさせられて、いきなり身寄りのない県外に住まわせられるんです。
そんな時、汚名をとかれると、政府のその前の態度とうってかわって、いきなり「旦那様の銅像をたてました。」
「どうか奥様、皆様の前のおひろめに、除幕式にご参加ください。」
と政府が言ってくるんです。
そして、式は華やかに、さまざまな関係者をまねいて、今まで何もなかったように、面前でふるまうんです。
そんな時、イトさんはその政府の鼻をへし折るように、ああ言うしかなかったんですね。
もう一つの理由は。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」だった西郷さんをよく知るイトさんは、もし生きていたら、このような像をたてることをこばんでいただろうと思ったからだと言っています。

エドアルド・キヨッソーネが書いた西郷さんの絵
生前の西郷さんは、いっさい自分の写真を残していないそうです。
そのため、西郷さんの実際の顔は正確にはわかっていません。
西郷さんの肖像がでもっとも有名なうえの写真は、エドアルド・キヨッソーネという外国の画家が書いたといわれています。
キヨッソーネは西郷さんに実際にあったことはなく、西郷さんの弟の西郷従道(さいごうじゅうどう)さんやいとこの大山巌(おおやまいわお)さんの顔を参考にしてかかれたため、西郷さんの顔は違う説がとなえられています。


薩摩藩士、床次正精がかいた絵
この上の西郷さんの絵は、薩摩藩士で西郷さんと面識もあった、床次正精(とこなみまさよし)という人がかいています。
この絵は、西郷さんの死後、自分が西郷さんにあった記憶を頼りに、何十枚ものデッサンを書き上げ、それを弟の従道さんや、黒田清隆(くろだきよたか)などの、生前西郷さんと付き合いの深かった人々にそのデッサンを見せて、意見を聞いては書きかえと、修正を重ねたこの絵は、当時の西郷さんを知る人々に、「実際の西郷さんによくにている」としょうさんされています。
キヨッソーネがかいた絵とも、床次正精のかいた絵や西郷さんの銅像などをくらべてみても、どちらも西郷さんの顔には統一性が多くどちらもよくにています。
西郷さんの顔は、やはりこの顔だったと推測されます。
イトさんが、「うちの人は、こんな人ではありません。」といったことや、キヨッソーネが想像で親族の顔だけを頼りにかいたということで、「西郷さんの実際の顔は違った」説が強まったいましたが、いまの西郷さんの子孫の方々も、似ているといい伝われています。
それにしても、西郷さんの人柄は、賊軍の汚名をひっくり返すほどの人間であったとことに頭が下がります。
われわれビジネスマンや営業マンなど、全てが人間力という事が関係しているのではないでしょうか??
あの人から商品を買おうとか、あの人からサービスを受けようと思っていただけるのではないでしょうか?
私も、14年バーを営んでいますと、やはり人間力というところを痛感させられます。
人間力というところが、長く仕事を永続させていける秘訣なのではないでしょか。
じゃあ今日もこのへんで・・。
今日も全てに感謝!!
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