
礼するは人にすかは 人をまた さぐるは人を さぐるものかは
この言葉は、島津忠良(しまずただよし){別名:日新公(じっしんこう)}のいろは歌の言葉です。
他人に礼を尽くすことは、決して他人のためばかりでない。
同じように人を見下げるということは、自分を見下げていることになる。
謙虚さと礼儀正しさを失うことがないように。
少しばかりの才能を鼻にかけて、人前でいばるようなことは慎みなさい。
あなたは、ビジネスや生活において、付き合いのある業者さんについつい、横柄な態度や冷たくあしらったりしてしまうことはないですか??
ついつい仕事がいそがしい時に、出入りしてくる業者さんや、営業電話をかけてくる業者さんの事をうっとうしく感じた事はないですか??
そんな時も、礼節をつくして相手に対応したいものですね?
私も何かで、時間に追われていると、あせっている気持ちがついつい平常心で対応できない時があります。
私も、気をつけないといけません。
人は自分より下と思っている人間に礼節をつくすことは、本当に難しいものです。
普段は出来ていても、状況しだいでは出来ない時だってあります。
上下へだてなく、どんな状況であれ、常に礼節をわきまえる事、この心構えが大事ですね。
それでこの言葉によると、そういう態度は、他人のためだけではなくて、自分のためでもあるのですよ。
と教えています。
突然ですが、黒田清隆この人を覚えておいてください。

黒田清隆(くろだきよたか)
黒田清隆は、西郷・大久保のあとを継ぐ大人物と言われ、北海道開拓長官後、第二代内閣総理大臣にもなった人です。
後の話に出てくる人なので、覚えておいてくださいね。
荘内藩と薩摩藩とのつながり

荘内藩(しょうないはん)「現在の山形県」です。
私の好きな歴史家の表現をかりて説明すれば。
藩は「大きな会社」。
荘内藩の藩主は「酒井忠篤」(さかいただずみ)
藩主は「会社の会長さん」。
1867年の年末のことです。
江戸にある薩摩藩邸などを中心に、全国から浪人が集結して、さんざん江戸の治安を乱していたんです。
いわば、薩摩会社の江戸支店に、無職のフリーター達が、薩摩江戸支店で働いて、商売を好き勝手やっていたんですね。
江戸の治安いじを任されていたのは、荘内藩などの兵を中心とする、5つの藩の1000による軍隊でした。
あまりのことに、とうとう我慢が出来ずに、薩摩藩邸を包囲して焼きはらってしまいます。
いわばこれを見かねた、江戸財閥に仕事を請け負っている、下請け会社の5つの会社が、もう我慢できない、「薩摩支店をもやせもやせ!!」と火をつけたんですね。
このとき、薩摩藩は数十人がが戦死してしまいます。
この事件のあとおよそ10ヶ月後、一年半ほど続く内乱(戊辰戦争)がつづきます。
この戊辰戦争の戦いは、あなたの街にあった古くからの商店街に、新しいシステムを持った大型ショッピングセンターのフランチャイズ(例えばイオンモール)が進出してきて、商店街(江戸幕府、荘内藩)対イオングループ(薩長を中心とした、新政府軍)の商戦合戦とイメージすると分かりやすいと思います。
荘内藩は、攻め込んできた新政府軍とたたかい、やがて降伏します。
山形県の商店街にイオンモールができて、山形の商店街がたった1年半でシャッター街になってしまったんですね。
1868年9月のことです。(明治元年)

菅実秀(すげさねひで)荘内藩 中老補佐役
前回の事件のこともありますし、荘内藩はどれほど厳しい降伏条件を突きつけられるかと、心配に満ちていました・・。
しかし、意外にも新政府軍の条件は、ビックリするほどやさしく、おだやかな降伏条件を新政府軍の参謀(さんぼう:課長)であった、薩摩藩の黒田清隆(くろだきよもり)から言いわたされます。
そして黒田は、藩主(会長)の上座に座って、ある程度の「言いわたし」をすませると、いそいで相手藩主(会長)の下座にまわって、「役目のために、ご無礼をいたしましたが、お許しください」と、じつに礼儀正しいたいどです。
その後の、黒田の言葉や態度にも、ちょっぴりも勝ちにおごって、いばったところが見えません。
荘内藩の人々は、後に「まことに武士道をわきまえた立派な態度だった。」と言って、いたく心を動かされたそうです。
明治2年(戊辰戦争が終わって2年後)に、荘内藩を代表して菅実秀(すげさねひで:副社長)中老補佐役が東京にやってきて、荘内藩にたいする寛大な処置にたいして、黒田にお礼を言いにやってきます。
すると、黒田は。
「あれは私の処置ではありません。すべて西郷先生の指示でやったことでございまする。」と、言って菅副社長を驚かせました。
そして、その「西郷先生」なる人は、新政府軍の指揮官でありながら、荘内藩が降伏した次に日には、荘内藩から出て行こうと言い出したそうです。
普通の戦争なら、降伏したばかりの相手には、油断がなりません。
相手が、すぐに反乱を仕掛けてくる可能性があるからです。
通常の指揮官なら、その場所にとどまって、厳しい警備をおこなって、反乱を阻止する必要があります。
それが普通でした。
すると黒田は、続けました。
「荘内から、すぐに帰ろうと西郷先生が言われたとき、私達は反対して西郷先生をとめました。しかし先生は『戦は、勝ちさえすれば、もうそれでいいんだよ。 その後は、荘内藩とて同じ日本人。 素晴らしい新しい日本をつくる同志。 もう敵味方はない』とおっしゃいました。」
この話を聞いた菅副社長は、心から感動し。
「武士たる武士」西郷隆盛を初めて知る事になるのです。
それがきっかけで、西郷さんと荘内藩との交流がはじまりました。
明治3年から、荘内藩から留学(研修)のために、76人の武士(スタッフ)を率いて藩主(会長)みずからがおもむいたのをかわきりに、毎年、荘内会社から研修生が薩摩会社に送られるようになりました。
藩主の酒井忠篤(さかいただずみ)会長も、翌年3月まで西郷さんと寝食をともにして西郷さんの教えを受けたそうです。
西郷さん最後の戦い西南戦争にも、西郷軍に荘内会社のスタッフが参加して、まだ少年だった事もあり、若い命をうしないました。
後の「南洲翁遺訓」は、西郷さんが死んで「逆賊」の汚名をきせられた後、荘内会社、菅副社長は、荘内会社の当時西郷さんとゆかりのあった社員をあつめて、記憶や証言、記録を元に明治政府の妨害をおしきり、西郷さんの教えを、「南洲翁遺訓」として本を発行しました。
菅副社長、本当にありがとう~!!
人に尽くす礼節の心
このように、どんな相手であろうが、分けへだてなく相手に対して礼節をわきまえ、相手に寛大で親切にふるまう事は、ビジネスであろうが人生であろうが、必ず自分の人生に良い影響として、自分の身に帰ってくると思います。
立場が上であっても、常におごらず、少しばかりの才能に、いばらず、、けんきょな姿勢で、どんな人にも親切に振る舞いたいものです。
今日も全てに感謝!!
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