薩摩の美しい生き方 ~088

真の勇者は、冬の霜のように自分にきびしく、           春の陽のように人の痛みを包み込む。

あなたは、きれいな生き方をおくりたくないですか??

 

 

心おだやかで、人にしたわれ、人に感謝される人生です。

 

 

私は、そうありたいと常日頃から思ってはいるんですが、それがなかなかねぇ・・。

 

 

 

私なんか、本当に自分に甘くて、ついついなまけちゃいます・・。

 

 

それじゃあ、いかんですね??

 

自分にきびしく、人に寛容(かんよう)であるべきですね??

 

 

私がよくこれはいかんなと思う事が、車を運転している時に、相手がおおちゃくな運転してきた時なんか、ついついムカッてくる時があるんです、あなたはそんな事ないですか??

 

イカン イカン、短気はソン気。

 

 

ソレ分かると思ったあなた、お互いに気をつけましょうね!!

 

 

きれいな心ってどんな心なんでしょう??

きれいな心っていったい、どんな心なんでしょう??

 

 

今日は、西南戦争のお話です。

 

 

もうじき、9月24日あの日がやってきます。

 

 

西南戦争は、日本最後の士族による、明治政府に対しておこした、武力反乱なんですよね?

 

 

今回はその西南戦争の時に、鹿児島士族がわの大隊長をつとめ、おしくも、西郷さんとともに、最後の激戦地、城山でちった村田新八のお話です。

 

 

 

村田新八

この写真って外人さんの顔ですよね??

 

鹿児島の人の顔って、本当に濃い顔の人が多いです。

 

 

ちなみに私も、かなり濃い顔してます・・・。

 

でも、村田新八の顔ですよ。

 

新八は明治4年に、岩倉具視(いわくらともみ)の欧米使節団の一行に参加して、アメリカやヨーロッパを回って、三年後に帰国します。

 

 

帰国後の新八の手には、パリで買ったアコーディオンがあったそうです。

 

 

完璧な海外から帰ってきた、パーリーピーポーですよね??

 

 

アコーディオンのうでまえも、楽譜がなくても弾けるくらいのれべるだったらしいです。

 

 

音楽をかなでる、「パーリーピーポー」ときくと、貧弱な繊細な性格のように感じますよね?

 

 

でも彼は、そんじゃそこらのパーリーピーポーではなかったようです。

 

 

が、「戊辰戦争」(新政府軍と旧幕府軍と、日本が二つに分かれた戦い)の時には、体中に刀きずを負いながらも勇敢に戦った戦士であったと言われています。

 

新八は明治十年、西南戦争がおきると、士族軍の「二番隊長」として、数千人の部下を率いて勇敢に戦いました。

 

 

その士族軍の中に、彼の息子達も従軍していたそうです。

 

 

長男は「岩熊」(いわくま)といって当時18歳。

 

次男は「二蔵」(にぞう)といって当時16歳。

 

 

新八の長男である岩熊は、小さい頃から優秀で、将来を有望視されていたそうです。

 

 

その岩熊は、「四番隊長」に配属されていて、1987年放映された時代劇ドラマ「田原坂」でえがかれた、激戦地田原坂で戦っていました。

 

 

[時代劇ドラマ「田原坂」が気になった方は、多分レンタルショップでかりれるはずですよ、とにかくキャスティングもすごいんです。]

 

 

 

村田岩熊がモデルの像

部隊の副官・市木弥之介(いちきやのすけ)は、とくにこの岩熊をかわいがっていて、「死なせるには惜しい少年だ」として、戦いの前線ではなく、部隊後方の伝令役を任命しました。

 

 

激しい戦いが続く中、岩熊が連絡を伝えるために、部隊首脳が集まる本営にいくと、そこに岩熊の父である新八がいました。

 

 

新八は、伝令役の岩熊にきづくと、

 

「若いくせに、病人にでもつとまりそうな仕事をかってでるとは、何ごとか!! 戦場にきたら真っ先に奮闘せんか!!」

 

 

と新八は、岩熊を怒ったそうです。

 

 

岩熊は小隊長に引き返すと、みずから刀をぬいて戦いの最前線へと勇ましく飛びこんでいき、奮闘のすえ、悲しいさいごをとげました。

 

 

驚いた弥之介は、本営にかけつけて「大事な息子さんを死なしてしまって、本当に申し訳ないことをしました。」と、新八にわびました。

 

この時、新八はひとこと、わびる弥之介に言いました。

 

 

「わしが、岩熊に、死に場所をみつけてやったんです。」・・・・そこにはきびしく、そしてやさしい父親の姿がありました。

 

 

「田原坂」という時代劇ドラマの歌に、

 

♪田原坂

 

雨は降る降る 人馬(陣羽)は濡れる

 

越すに越されぬ 田原坂

 

右手(めて)に血がたな 左手(ゆんで)に手綱

 

馬上ゆたかな 美少年 ~♪

 

ちなみに、この村田岩熊をモデルにした歌です。

 

 

 

村田新八の最後は?

新八の次男である、二蔵は延岡での戦いで、キズをおい、政府軍の捕虜となりました。

 

 

そんな西南戦争にまでも、フロックコートとシルクハットといういでたちで戦いました。

 

 

もちろんパーリーピーポーですから、戦場にアコーディオンも持っていったそうです。

 

 

 

そんなパーリーピーポーの新八の最後は、9月24日、西郷さんの自決を見届けた後、さらに進撃をつづけ交戦のすえに戦死をとげました。

 

 

 

 

出水兵児修養掟(いずみへこしゅうようのおきて)

士ハ節義を嗜み申すべく候    節義の嗜みと申すものは口に偽りを言ハず身に私を構へず、心直にして作法乱れず、礼儀正しくして上に諂らハず下を侮らず人の患難を見捨てず、己が約諾を違へず、甲斐かいしく頼母しく、かり且にも下様の賤しき物語り悪口など話の端にも出さず、譬恥を知りて首刎ねらるるとも、己が為すまじき事をせず、死すべき場を一足も引かず、其心鉄石の如く、又温和慈愛にして、物の哀れを知り人に情けあるを以て節義の嗜みと申すもの也。

[意訳]

 

人は人としての正しい道を守らないといけない。

 

正しい道とは、素直で礼儀正しく、目上の人にペコペコしたり目下の人を馬鹿にしたりしないこと、人の苦しみを見捨てず、約束は必ず守り、何ごとも生き生きと一生懸命やることだ。

 

また、品位のない人を困らせるような話や悪口などを決して言ってはいけないし、自分が悪ければ首がはねられるようなことがあっても弁解したりおそれたりしてはいけない。

 

そして正義のためなら一歩もひかない、鉄のような強い心を持ち、温かく、広くいつくしみ深く、相手の心の痛みが分かるやさしい心を持っているのが、本当に立派な人といえるのだ。

戦国武将としては、山田有栄(やまだありなが)又の名を山田昌巌(やまだしょうがん)という人がつたえたと伝えられます。

 

「出水兵児修養掟」はつねに生と死を見つめていた武士達への心の教訓であります。

 

出水は鹿児島と熊本の県境にありまして、私の祖先もここの関所警護する下層武士であったと、代々言い伝われております。

 

武士としての心得をしめした、この教えは、今でもこの地域の家庭によっては、表の間にあげて、昌巌の教えを守っています。

 

 

鹿児島北部、出水の人たちは、今もこの教えを受け継いでいます。

 

幼少の頃から、声に出してとなえ、人間として恥ずかしくない、美しい生き方をしなさいという教えが今も大事にうけつがれてきました。

 

美しい人間とは、口に偽りを言わず、私心のない人のことだといい、力のある人にへつらい、弱い立場の人をあなどるなどは、本当に恥ずかしいことだと教えているます。

 

そして、人の苦しみを見捨てるな、約束を守れ、いきいきとこうどうせよ、品位のないことをけっして口にせず、何者にもたじろがない鉄石のような心を持てとつずっています。

 

だがその奥にはあ、深い「人の情け」が秘められていなければならないと、心のそこに響く深い言葉で締めくくっています。

 

 

今の政治家や官僚達も、この教えを毎日暗唱できるまでとなえたら、金銭問題や天下り、企業などの癒着なんかなくなるんじゃないですかねぇ??

 

 

私も、美しい生き方をこの言葉で勉強させてもらいました・・・。

 

 

今日も全てに感謝!!

 

 

 

 

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