薩摩の偉人は一町内から出た??~086

とがありて 人を斬るとも軽くすな 活かす刀も ただ一つなり

今回も西郷隆盛のお話です。

 

 

あなたは、幕末の薩摩藩の多くの歴史的偉人は、加治屋町から排出された事を知っていますか??

 

 

 

日本の小説家、司馬遼太郎は、「明治維新から日露戦争までの期間に、多くの加治屋町出身の薩摩藩士が、功績をあげている事から。

 

 

 

「いわば、明治維新から日露戦争までを、一町内でやったようなものである」と評している。

(司馬遼太郎)

 

 

下加治屋町は、鹿児島市内に流れる甲突川にそった今でもある町です。

 

 

あなたも加治屋町に行ってみればわかると思うが、鹿児島の遊楽街天文館にほど近く、天文館から歩いて5分ほどの、この町の中心部には、鹿児島県立中央高校がドーンと陣取っており、歴史ある城下町の跡形は無く、西郷隆盛、東郷平八郎、藤原国幹、村田新八、誕生記念碑など、多くの史跡碑が隠れるように、町の中に乱立しています。

 

 

下加治屋町は、藩主が住む鶴丸城からはかなり離れていて、お城の近くには身分の高い藩士たちが屋敷を構えていて、身分の低い者が遠くで暮すのはどこの藩でもおなじでした。

 

 

当時の下加治屋町には、70軒の質素な下級武士の家が肩をよせあうように、集まっていました。

 

 

 

文政十(1827)年12月7日に、この町に住む身分の低い藩士の西郷吉兵衛とその妻マサのあいだに、長男がうまれました。

 

 

まん丸に見開いた目の大きなその赤ん坊は、「小吉」と名づけられました。

 

 

小吉は同じ年の子供らとくらべて、ひとまわり体格が大きかったそうだ。

 

 

動きが鈍かったので、どうかすると仲間からよくバカにされていたそうだ。

 

 

しかし、勉強も出来て力持ちで、心のやさしい少年に育ったそうだ。

 

 

薩摩藩で武家に生まれた男子は7歳になると、藩が運営する学校(藩校)いわば小学校みたなもので「造士館」に入学するが、それとは別に郷中という地域ごとの教育制度があり、これにも属して身心を鍛えていた。

 

 

 

厳格な郷中教育のなかで子吉はたくましい薩摩武士にそだっていくかに見えたが、十三さいの時、思わぬ災難が小吉を襲う・・・。

 

 

郷中教育の中に。

 

「他の郷中の者とはつきあうな。」

 

という決まりがある。

 

他の郷中とつきあうことはないが、血気盛んな少年たちは、他地区の者と集団でよくケンカをしていたみたいです。

 

 

ある日、造士館からの帰り道、小吉はひとりの少年に呼びとめられました。

 

先日ケンカのときに、小吉が得意の相撲で投げ飛ばした相手でした。

 

身分の低い家の子に恥をかかされたのを恨んで、復讐のため待ちぶせていたのです。

 

 

「チェスト!!」

 

 

と、かれはサヤが付いたままの刀で、いきなり襲ってきたのです。

 

 

「なんて事をするんだ」

 

 

小吉は、素手でその刀をうばいとろうとしました。

 

 

ケンカで刀をぬいてはいけないと、きびしく言われていたので、サヤに入ったままの刀で打ちこんできたのだが、それが小吉の右ヒジにあたった瞬間、バリッとサヤがたてに割れて、真剣がむき出しになりました。

 

 

小吉のヒジから血が飛びちるのを見た相手の少年は、

 

「あっ」

 

 

 

と、叫ぶなり大あわてで逃げ出しました。

 

 

 

小吉が血をとめようとしているところへ、同じ下加治屋町に住んでいる、小吉より3つ下の、大久保一蔵(おおくぼいちぞう)がちょうどやってきました。

 

 

「おっ、小吉さんどうしたの、かわいそうに。」

 

 

「騒ぐな」

 

 

「誰に斬られたんですか?」

 

 

「さあ、知らないヤツだった…。」

 

 

小吉は自分を襲ったヤツの名前を、決して言わなかったと言う。

 

 

ケンカで刀で人を傷つけたとなれば、最悪切腹にある場合もあったからだ。

 

 

 

小吉の負った傷は意外に重く、傷がいえてからも右のヒジの自由がきかなくなってしまいました。

 

 

西郷さんは後にも、剣術を練習していた記録はあるが、剣術が強かったというような記録はいっさい残っていない。

 

 

以外ではないですか?

 

 

人を飲み込むほどのあのかんろくは、人間力からはなたれていたのでしょうか??

 

 

西郷さんと会ったことはないですけど…。

 

 

 

ーその時西郷さんは

 

 

剣の道はあきらめるしかないな。

 

 

これも天命(天によって定められた人の宿命)と、覚悟してより一層学問に励んでいったといいます。

 

 

この事故から剣の道をあきらめ、学業に精進した西郷さんは、下加治屋町の郷中二才頭(ニセガシラ)、当時若手の教育係りとして、人望を集めるよになっていったのです。

 

 

 

当時の郷中は、小さな町を区切って、33もの郷中が存在していた。

 

 

ほかの地区の郷中との交流を禁じられていることが多く、派閥や縄張りを重んじる考えかたが、強いため、他の地区どうし郷中としての交流はなかったのです。

 

 

西郷さんが、下加治屋町の後輩の武士達を、立派に教育した。

 

 

 

これが加冶屋町の小さな一つの町で、明治維新以降かつやくした人材を多く輩出した理由なんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日新公

とがありて 人を斬るとも軽くすな 活かす刀も ただ一つなり

この言葉は、「日新公のいろは歌」の一説です。

「とがありて 人を斬るとも軽くすな 活かす刀も ただ一つなり」
 
 
罪人であっても、軽率に処罰してはならない。慎重に考えなさい。殺すことより生かすことの難しさを考え、生かして使うことを考えよ。
 
 
 
という意味。
西郷さんは、剣の道が途絶えてしまった。
その思いは、私が想像するに、本当にいたたまれない気持ちであったに違いない。
しかし、彼の強さは、失ったものの代償を悔やむばかりか、現状を前向きに捉え、勉学、当時は儒教などの道徳心の道を選んだのだろう。
それが彼の大きな人徳を産んで、たくさんの人からの人望を集めた。
西郷さんは人をしかるとき、必ず相手の逃げ場をつくってらしかっていたという。
例えば、現代社会においてはどうだろう…。
例えば、上に立つ人において、部下の横領や裏切りなどを、逃げ場のないくらいに追い込んではいないだろうか??
もちろん、裏切りや、横領という行為は本当に許しがたい行為だ…。
がしかし、その後にある罪を裁くにおいて、どこか冷静な感情で、その人間を生かすという難しさを考えながら、別れを告げるなり、追い込まず対処したいものである。
私においても、わずかなの経験から、この言葉を参考にして判断を下したことが何度かある。
今でも間違っていなかったと思える…。
いつか、笑って飲める日がくると思っている。
上に立つ人間において、難しい判断の時、何時も心に留めておきたい言葉である。
今日も全てに感謝!!
 
このエントリーをはてなブックマークに追加