
古の道を聞き手も唱えても、わが行いに、せずばかいなし
昔から伝わるどんなに立派な教えや学問をいくら聞いても、またどんなに口先で唱えてみても、自分の行動で実践、実行しなければ何の役にも立たない。

あなたは、島津日新公(しまずじっしんこう)「いろは歌」を知っているだろうか??
いろは歌は、一番最初から身のしまるほど、核心を突いた教えから始まる。
あなたが、一番なじみの深いところでは、テストで三択問題で書かれている、イ、ロ、ハ、など小学校の頃くらいからふれるアレである。
もしくは、初期の手ほどきなどで示す、「○○のイロハ」などと、目にしたり、耳にしたことがないだろうか??

島津日新公
「島津忠良」(しまずただよし)
戦国時代の薩摩国の武将。
「薩摩の聖君」と呼ばれるだけに、徳のすぐれた君主として名高い。
第15代島津本宗家の当主になった人だ。
幼少の頃、忠良は父をなくして、母と祖父の計らいでお寺に入れられ厳しい教育を受ける。
その生い立ちから、彼は身心深く、知性豊かに育った。
彼は中国との密貿易や鉄砲の導入など島津の発展へとまい進し、島津の基礎を作ったとされている。
島津家の激しい内紛のため10年にもわたる、島津家統一に苦しんだ忠良は。
孫に当たる島津義久や島津義弘らの島津4兄弟の立ち位置を明示し、島津家の内紛が起きないように、教育するなど育成に励み、島津一族の決裂をさけ、九州統一出来るほどの強さの源となる指針を孫達に説いた。
又、忠良は島津島津家に仕える家臣の団結,規律を結束させるために、「日新公 いろは歌」を創作し、当時読み書きの出来ない家臣へ、分かりやすく、覚えやすい教育の基本として歌として創ったものとされる。
いわば、確固たる島津家の強さの礎を築いた人である。
「いろは歌」
「いろは歌」
薩摩の郷中教育として、読み書きの出来ない子供達の教育として、「いろはにほへとちりぬるを」の順に頭文字を並べ、昔は48音、今は47音で歌として、繰り返し教えられたという。
又、手習い歌として、毛筆の練習にされていた。
薩摩に伝わる家臣団の柱となる教育の書であった。
薩摩藩の武士達にこめた、人間の生き方を問う、「薩摩藩士の藩訓!!」
この歌の教えは、現代の私たちにも通ずる教えが数多く含まれている。
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