
西郷隆盛2番目の奥さん「愛可奈」っさん
「薩摩女子道」という言葉を、西郷隆盛のひ孫である、西郷隆夫さんがよく父から聞かされたと話してくれた。
今では余り耳にしなくなった言葉であるようだが。
「鹿児島が今だに男尊女卑がひどい県だとか言われる事がある」
また「九州男児は何県かという問いにも、鹿児島か熊本というイメージが強い」
これらの理由にも、この「薩摩女子道」という考えが由来しているかもしれない・・。
そういう事で、今回は余り知れれてない「薩摩女子道」について、西郷隆夫さんの話を紹介しようと思う。
2月14日は何の日だろうか??
まだ、半年先の話であるが。
あなたは、もちろんバレンタインデーだろうと思ったはずである。
そう、2月14日はバレンタインデーである。
2月14日は女子が男子にチョコレートを沢山配りまくる日。
日本全国そうです。
じゃあ、鹿児島にとっての2月14日は何の日か??
あなたは、薩摩にとって2月14日は、何の日か分かりますか??
薩摩の2月14日は、西郷さん率いる1万3千余りの兵が、2月15日に西南戦争に出発するその出発する日の前日だ。
鹿児島では女性の事を「オゴジョ」と呼ぶ。
その「オゴジョ」が、2月14日戦いに出る前日というのは、西南戦争に出陣する自分の子供、旦那を泣きながらお見送りする日だそうだ。
西郷さんも含めて、一万三千の兵の家族が15日に出陣に、心で泣きながら笑って見送る日だそうだ。
その出発前夜に、家族を見送る薩摩の女性達はどんな思いで見送っていたかを考えると、本当に涙が止まらない。
特攻隊の家族が、最後戦場に見送る気持ちと同じ気持ちではなかったかと、隆夫さんは気持ちを熱くして語ってくれた・・。
15日に戦地に旅たつ兵隊は皆若い下の武士達で、何十年ぶりの大雪の降る日だったそうだ。
そして西郷さんは2月17日に兵を追って出発したそうだ。
薩摩女子道

西郷隆盛3番目の妻「西郷糸子」(いとこ)さん
この「薩摩女子道」というのは、どういうことかというと。
稚児(6歳)になるまで、お母さんが育てる。
そして長男、長男に対してお母さんは一生懸命教えをこうむる、長男は手水鉢も違う、物干しも違う。
長男が寝ている時に、頭の上をお母さんは通ってもいけない。
それぐらいに、長男だけに武士としての教育、誇りを一生懸命教えるのだ。
それまでは、武士の母として、薩摩のオゴジョとして、長男が立派な武士となれるよう勤め上げる。
しかし、その長男が元服(15歳)すると、今度はお父さんの仕事へと武士の教育が変わる。
例えば今の教育で言えば、3人の兄弟がいたら、少し前に流行った妖怪ウォッチのおもちゃが一個しかなかったら、あなたはどうしますか?
と今のお父さんお母さんにこれを誰に分け与えますかと聞いたら。
みんな今のお父さんお母さんは、一番下の弟、妹に分け与えると答えるそうだ。
「お兄ちゃん、我慢しなさい」
「お兄ちゃん、又買ってあげる」
「お兄ちゃんなんだから、我慢しなさい」
と、一番下にあげるというのが、今の教育らしい・・。

薩摩の教育はそうでなかったらしい。
そういった場面では、薩摩女子道として、全て長男坊です。
長男坊に全てあげて、弟達、妹たちにはけして与えません。
極端ではあるが、凄く効率的な教育方法をとっていたらしい。
だから当時の子供達は、兄弟げんかが無かったらしい。
西郷さん家の兄弟達も、アニョ(兄さん)は絶対、アニョ(兄さん)は絶対と敬語で会話をしていたそうである。
西郷隆夫さんが小さい頃、親戚に何故敬語で喋っているのかを不思議に思って尋ねたところ。
「あたりまえだろ、お兄様はお兄様だ、学校の先生は先生様だ!!」
と言い切られたそうだ。
そうやって、薩摩女子道は母親が長男に全部教える。
そして、下の弟や妹達は、教えて欲しい事は全部お兄ちゃん達から聞くという、郷中教育が浸透していたのではないか?
と喋ってくれた。
やはり強い薩摩を作ったのは、薩摩オゴジョ(女性)だったとは過言だろうか??
この話を知ると、ただただ女性の強さに頭が下がる思いでならない。
薩摩のイメージといえば男性的なイメージばかりが残るが、その陰の支えは薩摩オゴジョのすごさにあった・・・。
今日も全てに感謝!!
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